自動的(じどうてき) に ふりがなを 表示(ひょうじ) しています。   ふりがなをはずす
このページの本文へ
更新日:

大内田支援員の紹介

ooutida1_edited-1.jpg

 2018年4月1日、集落支援員に就いた大内田睦美(おおうちだむつみ)さん。久慈市夏井町の出身です。
 職歴を重ね世界一周の夢を実現させるなど、日本や各国の状況をその目で実際に見てきた大内田さん。彼はどのような思いをもって集落支援員となったのでしょうか?

広い世界を見てみたい

―― 大内田さんは2018年4月1日、久慈市の集落支援員として活動をはじめました。久慈市出身だと聞きましたが?
 大内田 夏井町の出身です。平山(たいやま)小、夏井中、そして久慈高を卒業しました。高校を卒業してからは市内でアルバイトをしてお金を貯め、東京の専門学校に進みました。

 

 ―― 専門学校を卒業したあとは東京で働いていたんですか。0021.jpg
 大内田 関東や久慈でさまざまな仕事をしました。たとえば、障がいのある子どもに携わる仕事をしたり、大手企業の期間工として工場で働いたり、NGOでボランティアをしてみたり、久慈市の臨時職員をしていたこともあります。
 ―― そうした転職は意図して…
 大内田 突然、天から降ってきました(笑)。
 ―― え?
 大内田 19歳のときに自分のこれからについて考えたとき、心に決めたことが2つありました。決めたと言うより、まさに天から降ってきたという感覚なんです。
1つは「20代のうちに世界一周を果たす」、2つめは「20代のうちはあえて職を定めず転々とする」ということ。とにかく「広い世界を見てみたい」と思ったんです。

どこに行っても変わらないもの

0031.jpg

―― 世界一周は実現しましたか?
 大内田 海外はこれまでに2度、旅をしています。1度目で世界半周、2度目で世界一周を実現することができました。
 はじめての海外は2015年12月の出発で、70日間の旅でした。
 ロシアのウラジオストク―モスクワ間9,300kmをシベリア鉄道で横断し、モスクワで年を越しました。ヨーロッパを廻ったあとアフリカへ渡りました。
 その後、中東を経由して香港・マカオ、帰国して沖縄を訪ねました。沖縄では、たまたま出会ったおばあちゃんにものすごくお世話になりました。

 

―― 世界を見るんだという決意は本物だった!0041.jpg
 大内田 2度目は2017年8月に出発し、1,000人以上の人たちと一緒に船に乗って地球をぐるっと一周してきました。
 アジアからスタートして、スエズ運河を通航してヨーロッパ各地を巡りました。アイスランド近海では人生初のオーロラに出遭いました。北中米やパナマ運河をまわって、最後はハワイ島に寄港し11月末に横浜に帰ってきました。104日間の旅が終わり、世界一周となりました。
 あ、そういえば船の中で久慈の人と会いました、しかも2人。こんな小さなまちから3人も乗船しているんですから、人口比で考えたら船内No.1の乗船率だったと思います。外国の海の上での地元トークは、なにか変な感じでしたね(笑)。

―― 各地での印象深いエピソードを2、3紹介していただけますか。
 大内田 私はケニアの子どもたちへの医療支援をしていまして、今年で8年目になるのですが、最初の海外の旅のとき、2016年2月ですが、ケニアに行って私が支援している男の子と女の子に会ってきました。

0051.jpg子どもたちも現地スタッフもすごく喜んでくれて、こちらまでうれしくなりました。5日間の滞在で、スラムの家庭や小学校、孤児院を案内してもらい交流を深めてきました。
 また、ポーランドのホステル(簡易宿泊所)では、同部屋の人間にロッカーの鍵を壊されてバッグを盗まれました。しばらくのあいだ人間不信になり動けなくなってしまったんですが、同じホステルに宿泊していた台湾の女の子が一晩中、話を聞いてくれたりして立ち直ることができました。

 

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所やシンドラーの工場では、当時の生々しい雰囲気を感じることができました。偶然知り合った日本人男性と工場を回りましたが、彼は中東で銃声を聞きながら年を越したと話していました。

0062.jpg

 

 ―― エピソードはいくつでもでてくるのですね。数えきれないほどの経験から得られた学びは、どんなものだったのでしょう。

 大内田 私にとってはすべてが非日常でしたが、そこに暮らす人々にとってはただの日常が流れていて、どこに行ってもそこには地域の「生活」がありました。シベリア鉄道にしても、ロシアの人にとっては生活路線でした。
 裕福だったり、貧しかったりと違いはありますが、みんな仕事をしたり、近所の人と冗談を言って笑い合ったり、娘の結婚式に向かう途中だったり…。
 「変わらないな」と思いました。あたりまえのことですが、どこにも大切な暮らしが、生活があったんです。

夕暮れの校庭で重なって見えた

0072.jpg大内田 海外にでかけるまえ、母校の子どもたちと一緒に過ごした時間がありました。
 夕暮れの校庭で一緒に遊んでいるときに、当時の自分たちの姿と重なって見えたんです。
 「ああ、俺たちもこんなふうにたくさんの人や地域に見守ってもらっていたんだなあ」と。
 その時代を一緒に過ごしたみんなや地域が、とても愛おしく感じられて…
 ―― そうした思いが、集落支援員へと…
 大内田 その後、市内あちこちの活動に参加するようになりました。そうしたなかで、地域おこし協力隊や集落支援員との交流もはじまりまして、それが現在へとつながっています。

―― 地域を元気にする仕事がしたいと考えるようになったわけですね。
 大内田
 地域活動にも参加していたし、市役所で臨時職員をしていたこともあるので、これまでの経験を活かすことができるんじゃないかと思ったんです。
 ―― いよいよ業務が本格化するわけですが、どのように活動していこう思っていますか。大内田さんが担当する地域は、小久慈、夏井、宇部と聞きましたが。
 大内田
 私は「交流を活発にする」ことに貢献できればいいなと思っています。むずかしい課題解決に向けた地域の集まりの場合でも笑顔がこぼれるようになれば、子どもたちや若い人も行事に参加しやすい雰囲気になるかもしれません。  
 地域の集まりには、私も気軽に呼んでいただきたいなと思っています。
 まずは、地域のみなさんの輪に加えていただき、みなさんと仲良くなること。私はそこを出発点に活動をスタートさせたいと思っています。

力あわせ輝くまちへ

0092.jpg大内田 私は20歳で久慈をでて以来、多くの日本人また外国人と知り合ってきました。そして、現在30歳になったわけですが、これまで10年間ずっと「久慈に遊びに行ってくれ」あるいは「遊びにきてくれ」と何回も言い続けてきました。
 ―― やはり久慈が大好きなんですね。
 大内田
 でも実際に、久慈に遊びにきた人は1人もいません。私の魅力が足りないだけなのかもしれませんが(笑)。  
なぜきてくれないのかと聞いたら「遠い」と言うんです。ただし、「八戸市や宮古市には行ったことがある」と言う人がいます。「途中、久慈駅で休憩したよ」とか…。

 ―― それはある意味、厳しい現実として考えてみる必要があるのかもしれませんね。0102.jpg
 大内田 「あまちゃん」効果が薄らいでいけば、観光的な側面は厳しくなっていくだろうなと…。
 観光資源も大切、それをピーアールすることも大切です。これを充実させるのは地域おこし協力隊に求められている役割と言えるのかもしれません。
 一方、もう一つ大切なこと。地域の魅力とはやはり、地域の人が輝いていることなのだろうと思っています。人が輝けば、その姿を求めて外から人がやってきます。輝きづくりをサポートするのは集落支援員の役割だと思うのです。
 ですから私は地域おこし協力隊の人たちと一体感をもって、地域の魅力を高めることができたらいいなと思っています。
 ―― 支援員、協力隊員の活動の仕方は多少違っているかもしれませんが、両者ともに最終目標は「地域を輝かせること」。今後とも、力をあわせて活動を進めていきましょう。

※インタビュー2018年4月13日 聞き手・文/宇部芳彦(久慈市地域おこし協力隊)

この記事へのお問い合わせ

部署:地域づくり振興課
電話番号:0194-52-2116